本田宗一郎の真実
第一話 2サイクル対4サイクル本田宗一郎と富塚清
モーターファン1960年9月号 「2サイクル対話(61) 国際オートバイレースの話題」には次のような記述がある。
「日本の2サイクル勢に期待する」、「2サイクルの前途は洋々。4サイクルよりもその点において上」、(質問者の弁として)「ホンダがはりきっても、4サイクルではアグスタ(注、MVの事)以外にもなかなかの強敵がありますから、トップに立つのはなかなかの難事と思います」
1960年(昭和35年)と言えばホンダがマン島TTレースに打って出た2年目であり、マン島以外のGPレースへの出場を始めた年である。この年、6月のマン島TTレースにホンダは250cc4気筒RC161を出場させ4~6位を得てそれなりの手応えを感じていたが、ここに書いてある事はこの 年からマン島TTレースに出ていたスズキ、及び翌年からの出場が予想されていたヤマハの2サイクル勢は期待が持てるが、4サイクルのホンダはお呼びじゃないと言う事だ。
当時4サイクルの馬力向上に精魂を傾けていた激情家の本田宗一郎がこの記事を目にしたら、その怒りはいかばかりであっただろうか。
この「2サイクル対話」の執筆者が富塚清であった。
ところで現在4サイクルとは言わずに4ストロークと言う場合の方が多いが、この当時は4サイクルという言い方が多かった。どちらも4ストローク(行程)1サイクル(循環)を縮めたものだ。
富塚清(1893~1988)は戦前、戦中時に東京帝国大学工学部航空原動機学科の教授で東大航空研究所の所員だった。戦前世界のトップクラスと言われた日本の航空技術を支えた第一人者で、1938年に周回世界記録を作った航研機の開発にも携わり、著書である「航空原動機」は戦後に至るまでエンジンの集大成的なバイブルであった。
戦後は2サイクルの研究に情熱を傾けモーターファンに寄稿した。オートバイにも大きな興味を持ち1980年には「オートバイの歴史」(山海堂)を出した事からオートバイ研究家と思っているマニアもいるが、戦前、戦中時に氏の教えを受けたエンジン技術者が戦後日本の自動車界で大きな働きをしたと言う日本エンジン界の権威である。
ホンダF1の責任者でのちに国際自動車技術会会長となった中村良夫も富塚清の愛弟子である。
富塚清と本田宗一郎は戦後モーターファンの鈴木社長の仲介で知り合い、2人で2サイクルの研究をしたこともあったが、ホンダが4サイクルに転じてからは疎遠となり時に対立した。
富塚は自著「オートバイの歴史」の中で本田宗一郎について「対談すると野武士的気迫にはいつも威圧され、言いたいことの半分も言えなかったものである」などと書いているが、富塚は戦時中常に軍の指導者層の科学思想の貧困さについて教え子達に嘆いており、東条首相にさえズケズケと苦言を呈した。
軍部はこれを煙たがったが、何せ相手はその直接間接の弟子達が国家の命運を握る原動機の開発に従事していた関係でうかつには手出しが出来なかったと言われる。
ホンダの大ヒット作となった1958年発売のスーパーカブについても富塚は「50ccの4サイクルは邪道」と批判し本田宗一郎が「富塚の馬鹿が」と罵倒すると言う事もあった。
2サイクルと4サイクルの歴史
1876 4サイクルの開祖、オットー(独)のガス機関
1881 ヂュガルド・クラーク(英)の2サイクルガス機関
1883 ダイムラーの4サイクルガソリン機関
ダイムラーはオットーの会社の工場長だった
1900頃 英国で2サイクルガソリン機関数種
1903 ライト兄弟の初飛行
1906 スコット式2サイクル(英)
1907年からのマン島TTレースで活躍
2サイクルはその出現においては4サイクルにそう遅れた訳ではないが、以後の発展において4サイクルに大きな遅れをとった。1914~1918年の第1次世界大戦において航空機の重要性が認識されたが、ここで採用されたのは殆ど4サイクルであった。
2サイクルが嫌われた理由の第1は、その単純な構造上改良の手掛かりがなかったという事であった。4サイクルは吸入、圧縮、爆発、排気という行程が理解しやすく、改良の手掛かりが多かったのに対し、2サイクルはそもそもなぜ回っているのかが良く分からないほどで、エンジン停止が即墜落につながる航空機に採用されにくかった。
以後第2次世界大戦が終わるまで4サイクルの改良には国家の最高の頭脳が投入され大いなる発展を見たが、2サイクルは殆ど見るべき発展はなかった。それでも戦後のオートバイメーカー乱立の時代に弁機構を持たない2サイクルは簡単に作れるエンジンとして多く採用され、4サイクルに劣る事のない性能を発揮していた。
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